新型コロナウィルス問題について

新型コロナウィルスをめぐるいろいろな問題について、私の考えを示します。
メディアの方々から取材依頼をいただきますが、お尋ねになりたいことがらが以下に該当するなら「中谷内がこう述べている」として引用していただいて結構です。各々についての許諾プロセスは求めません。

・ワクチン接種の意思決定について (2021年8月16日追記)



ワクチン接種の意思決定について

ワクチン接種について以下のように考えています。
 自分がワクチンを打つ・打たないは個人の自由という前提のもと、政府が国民にワクチン接種を推奨するのは当たり前。“将来的に深刻な副反応が絶対に出ないとはいえないから、ワクチンは推奨しません”というような政府なら、国民の将来はそれこそ深刻なものになるでしょう。ただし、ある個人が“将来的に深刻な副反応が絶対に出ないとはいえないから、ワクチンは打ちません”というのはその人の自由。この場合の自由は、自分だけの問題にとどまらず、自分が感染、発症、重篤化することで社会的な負担を高めるリスクをそのままにしておく、ことを含めた自由ということになります。「他人に迷惑をかける自由などあるのか」という疑問も湧きますが、それを否定してワクチン接種を強制するような国を望まない、という国民の意向があって現在の日本があるのだと思います。

 ワクチンの副反応として将来不妊となるリスクを問題視する意見があるようです。そのような情報の出所や真偽については触れませんが、「自然に生活していて不妊となるなら諦めはつくが、ワクチンのせいでそうなったとしたら悔やんでも悔やみきれない」としてワクチンを拒否するという気持ちは理解できます。それはオミッション・バイアスと呼ばれ、“バイアス”というくらいですから判断の歪みと捉えられていますが、それも含めての個人の判断です。古典的なリスク認知の2因子モデルのうち、未知性因子の性質からも将来の不妊という論点が持ち上がり、ナーバスな問題になりやすいことは説明がつきます。2因子モデルと新型コロナの認知に関しては拙著「リスク心理学(ちくまプリマー新書)」で解説しています。ただ、理解はできますし、説明もつきますが、その判断が“正解”であると述べているわけではありません。

 私は、将来の絶対の安全が保証されないなら○○しない、とか、××しておく、というのはバカらしいことと思っています。将来の絶対の安全など何ごとにも保証されるわけがないからです。将来被りうるひどいことの内容やその可能性を考え、現在○○しないことや××しておくことのベネフィットやコストとの兼ね合いから判断すべきだと考えます。このとき、将来被りうるひどいことの内容や可能性の推定は不確実性が大きく、主観的な見立ては人によって全然異なったものになりえます。ですので、「ワクチンで発症や重篤化を抑える効果が高いことはわかったし、感染抑止も実証が難しいが効果はありそうに思う。痛みや発熱の副反応もすぐにおさまるようで、新型コロナに感染し苦しむことを考えたら十分に受け入れられる。けれども、自分にとって将来の出産、子育てはかけがえのないものである。厚労省のHPを読んで『不妊になる科学的な根拠は示されていない』ことはわかったが、将来の安全が保証されているとは思えず、今は接種したくない」という人もいるでしょう。将来の絶対の安全を証明することは原理的に不可能なのですが、ご本人が十分に情報を得て考えた結論とおっしゃるなら、それ以上どうこうする必要はないと考えます。

 事業者が利益を求めて客を選ぶ自由は保障されるべきだと思います。たとえば、大声ではしゃぐ人が出やすい居酒屋やライブハウスのオーナーが、自店から重篤患者が出ることを恐れてワクチン接種を行った人に便益を与えることや、そのような店であることをアピールすることで集客力を高めようとする自由はあると思います。一方、当然のことながら、政府や自治体がワクチン接種拒否を理由に個人の権利を侵害することは許されません。「ワクチンを打たない人は投票場にきて欲しくないから選挙権を剥奪します」などありえません。 難しいのは、多くの事業者がワクチン非接種者を拒否するようになれば、ワクチン非接種者の生活がたいへん不便なものになったり脅かされるような事態がありうることです。「自由意志で接種を拒否するのだからデメリットは受け入れるべき」という向きもあるかもしれませんが、体質の問題でワクチンを避けるべき人もいます。事業者の自由は護られるべきですが、一方、飲食店が障害を理由に差別的な入店拒否を行った場合は違法となるように、事業者の客の選別が無条件に許されるわけではありません。残念ながら、この問題について「こうすれば良い」という一般性のある線引きは持ち合わせません。ケースバイケースで話し合い、対応を講じるしかないと思います。

 以上です。
 木で鼻をくくった“人ごと”のようなコメントですが、研究者としてできるだけ主観的・政治的にならないよう人ごとコメントを心がけています。
 ですが、思うところあって、以下、自分がワクチンにどう対応したかをお話しします。ありていにいうと、「ご自身はどうされたんですか」と尋ねられて、答えないのはずるい気がしたからです。
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私はそもそも注射が大嫌いです。人の身体に針を突き立てて、異物を注入するんですよ。それだけでもおそるべき暴虐です。ましてや新型コロナワクチンは副反応が強く、確率も高い。37.5度以上の発熱がファイザー製で約4割、モデルナ製にいたっては約8割って、無茶苦茶でしょ。「世間のワクチン接種が順調に進んで集団免疫が獲得され、自分は注射を免れた」というシナリオが理想的です。 けれども6月に大学で職域接種の募集があって、申し込みました。そのとき考えたのは以下のようなことでした。
  • 今後、ワクチン接種が拡がってもいろいろな変異株が出て、感染そのものはなかなか収束はしないだろう。収束するとしても、毒性の低い変異株がとってかわって社会的に問題にされなくなるだけであって、実際の感染リスクはなかなか下がらないだろう。
  • しかし、ワクチンの効果で重篤化する可能性は抑えられる。逆にいうと重篤化する人の多くはワクチンを打っていない人となるだろう。
  • 対人接触を抑える自粛は限界に近い。経済的な問題とともに人と直接対面して楽しみたいという人の本質的な部分は変えられず、ワクチンの拡大とともに様々な規制は緩められるか、実質的に緩和の方向に進むだろう。
  • つまり、感染リスクは下がらず、対人接触の機会は増し、重篤化するかどうかはワクチン次第という傾向が強まるだろう。
  • 自分は調子乗りで、酒の席も好き。これまではゼミコンパも自粛し、対面のイベントを避けてきたが、緩和されたら多方面で動き出すに違いない。
  • そうなると、いずれ感染するという自信がある。そして、年齢的にワクチンを打っていないと重篤化しやすい。
  • 重篤化したら、注射が怖いだの何だのという牧歌的な状況ではなくなる。
  • 早く新型コロナが収束した世の中になって欲しい。立派なことはいえないが、それに役立つ方向に行動したいと、少しは思っている。

第2回接種後、38.9度まで熱が上がりました。やはり注射恐るべし。
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・医療従事者や感染者、それらの家族への差別や偏見について (2020年9月14日追記)
・人々がマスクを求めた本当の理由 (2020年8月20日追記)
・人々は新型コロナウィルスをどういうふうに受けとめるか (2020年4月12日、以下同じ)
・情報提供のあり方と政府や自治体、人々の責任について
・デマ・噂と買い占め、パニック
・リスク対策の基本方針についての私見
・正しく恐れる、について
・心配総量有限仮説



医療従事者や感染者、それらの家族への差別や偏見について

コロナ禍において医療従事者や感染者、それらの家族に対する差別や偏見、誹謗中傷が数多く報告されました。感染患者を救うために奮闘する医療従事者が差別され、感染症に苦しむ患者が誹謗中調を受けるのは、理不尽なことのように思われます。しかし、こういった差別・偏見は歴史的にも珍しいことではありません。なぜそのようなことが起こるのか、こういった問題にどのような姿勢で取り組むべきか、という問題についての私見を「医療白書2020年度版(日本医療企画)」の第2部4章に執筆しました。詳細は同書をご覧いただければと思いますが、概略を以下に示します。多くは心理学理論がベースにありますが、その説明はここでは省略します。
なお、私の考えが正しいかどうかは、本来、調査を実施して検証する必要があります。あくまで、「こういう説明が可能ではないか」という候補のひとつとして受け取ってください。

なぜ、そういうことが起こるのか。
理由1.
医療関係者や感染者、その家族による感染リスクが高いとみなされやすい。なぜなら;
  • 実際、医療施設で大規模クラスターが発生している。大々的に報道され皆知っている。
  • 感染リスクに直面しながら医療従事者が患者相手に奮闘する様子が生々しい映像で報道されてきた
  • 感染症は実際に人から人にうつるものなので、他の疾病や傷害より警戒されやすい
  • 「病院が危ない」「感染者家族は危険」という思考をいったん得ると、それらに当てはまる情報を積極的に確認し、反証情報はスルーする
理由2.
状況(感染リスク)は千差万別であっても、「病院関係者」「感染者の家族」とひとくくりにされ、危険と判断されやすい。なぜなら;
  • 世界は複雑だが、人の情報処理能力は限定的であり、そのために世界を単純化して、低い負荷で理解しようとするから。これは人の基本的な世界認識の方法
理由3.
「世の中は公正にできていて、悪い人・悪行には悪い結果が帰ってくるし、良い人・善行には良い結果が帰ってくる」という信念をもつ人は多い。その結果、「彼らがひどい目にあうのはそれなりの理由がある。同情どころか嫌悪されて当然」という方向に考えてしまう。被害者が非難されることと共通の心理的基盤

理由4.
新型コロナで多くの人々が日常生活に支障をきたし、経済的困難に直面している人も多い。この状態に多くの人がフラストレーションを感じている。通常、何か困難に直面すれば、その原因を排除(攻撃)し、日常を取り戻そうとする。ところが、新型コロナを排除する方法はない。
    →排除すべき代替の攻撃対象を探すことになる。そこで“皆が我慢しているのに、身勝手な行動、享楽的な行動をして感染を広めた”と攻撃対象が感染患者に向かう。 病院関係者のせいで世の中にウイルスがバラ撒かれる、という因果関係が倒錯した攻撃心をもつ人もでてくる。



人々がマスクを求めた本当の理由

詳細は以下のリンクから論文をダウンロードして下さい。 https://doi.org/10.3389/fpsyg.2020.01918
新型コロナ感染が拡大しつつあった2020年の3月下旬に全国調査を実施し、マスク着用がどのような心理的要因と結びついているのかを分析しました。その結果、人々のマスク着用は、他の着用者を見てそれに同調しようとする傾向と強く結びついており、一方、本来の目的であるはずの、自分や他者への感染防止の思いとはごく弱い関連しかないことがわかりました。2020年の春先は、人々がマスクを求め国中が大騒ぎとなりましたが、実は感染予防は微弱な理由でしかなく、主な理由は、他の人がマスクを着けているので自分もそうしたい、という思いだったのです。 近年、人の判断・行動特性を理解し、それを踏まえて望ましい行動を促すナッジという手法が注目されています。今回の研究結果から、新型コロナへの各種対策行動を促すためには、人々の同調傾向を利用したナッジが有望であることが示唆されます。 しかし、同調傾向を利用したナッジでは、他者の行動の可視性を高める必要があります。これは、お互いの監視を強化する窮屈な社会や、個人情報の拡散といった人権侵害を助長するおそれもあります。そのことを踏まえた慎重な取り組みが求められるでしょう。

ところで、この研究結果がいくつかのメディアで紹介されましたが、「日本人」と「同調でマスク着用が促された」という面に反応し、「日本人は同調しやすいから、コロナ対策まで他人に付和雷同する。かように日本人は情けない」という解釈をする人がいたり、あるいは、私自身がそのような主張をする意図で今回の研究発表をしたと解釈する向きもあるようです。それらに対する私の考えは以下の通りです。
今回の研究をもって「日本人は同調しやすく、コロナ対策まで他人に付和雷同する。残念」と考えるのは二重の意味で不適切です。そもそも、同調する日本人という単純化された通説は誤りであることが示されています(「集団主義という錯覚(高野陽太郎著)」がおすすめの一冊です)。実際、アメリカではトランプ大統領支持派がマスクを“しない“という規範に同調していました(6月20日オクラホマ州タルサでの政治集会が一例)。同調傾向は日本人に特有なのではなく、人間の基本的な性質と考えるべきでしょう。また、同調というとネガティブな印象がありますが、必ずしも悪い面ばかりではありません。とくに感染症対策は一斉に皆で実施することで高い効果が上がります。今回の結果を怪しげな通説に結びつけるのではなく、同調の有益な面とまずい面を踏まえて感染症対策に反映させるべきだと考えます。 すでに災害対策に関しては、同調傾向や近視眼的思考、惰性的判断傾向などの人間の基本的な性質をぬぐい去れないものとしてとらえ、それらを前提に個人の対策行動を促進するアプローチが提案されています。関心のある方は 「ダチョウのパラドックス(Meyer & Kunreuther, 拙訳, 丸善出版)」 をお読みいただければと思います。




人々は新型コロナウィルスをどういうふうに受けとめるか

新型コロナウィルスのリスクの大きさは「感染力」と「毒性の強さ」で決まります。しかし、人々のリスクの感覚的・直感的な受けとめ方(リスク認知といいます)は、専門家の技術的なリスク評価とは別の特徴を持ちます。その特徴のひとつを説明するのが、以下に示すリスク認知の2因子モデル (例えば、Slovic, P. 1987, Science, Vol. 236, Issue 4799, pp. 280-285)です。

人が直感的にリスクを判断するとき、2つの判断の基準があります。

<恐ろしさ因子>
 致死的、世界規模の惨事をもたらす潜在力、制御困難さ、
 将来世代への悪影響懸念、さらされ方が不平等、さらされ方が非自発的

<未知性因子>
 影響が後になって現れる、外部から観察困難、本人にも感知できない、
 なじみが薄い、科学的にわからないところあり、新しい

新型コロナウィルスは両方の因子にあてはまりがよいです。恐ろしさ因子については「致死的、世界規模で拡大、制御できていない(予防薬もない)、知らない間に市中で非自発的にさらされる」とよくあてはまります。未知性因子については「感染しても潜伏期を経てから発症、街中に感染者がいても見分けがつかない、感染しても覚知できない、初めて聴くような病気、科学な対処法もない」などピッタリとあてはまります。ちなみに、この未知性因子の特徴が強いと、それによる被害者が少数でも、将来の大惨事を感じさせる予兆として人々の拒否反応を高めるといわれます。福島第一原発事故直後、枝野官房長官(当時)の「直ちに影響があるとはいえない」というコメントが、市民への高線量被爆はなく、落ち着いて対処して欲しいという意図とは裏腹に火に油を注いだのも上述の未知性因子に当てはまったためと解釈できます。

BSE問題が、専門家によるリスク評価は低かったにもかかわらず、なぜ大きな社会問題になったのかも同様に2因子モデルによって説明が可能だと思います。この正反対に自転車のリスクがあります。自転車は実際にはかなりリスクの高い乗り物で、毎年安定して多くの犠牲者を生んでいますが、上記2因子にはあまりあてはまりません。なので、自転車恐怖症や自転車排斥運動などは起こらないのでしょう。




情報提供のあり方と政府や自治体、人々の責任について

自治体によって、新型コロナウィルス感染者の個人情報や行動歴の公表・非公表がばらついています。同じ地域なのに県は非公表姿勢が強く、市は公表姿勢という混乱もみられます。自治体は公表しないのに、感染者の出た企業や学校が自主的に公表するケースもあります。感染者に関する情報開示はどうあるべきでしょうか。

本来、公共性の高い情報は自治体や政府の持ち物ではなく、住民や国民には知る権利があります。しかし、感染者に関する情報は何でも公表すべきというわけにはいきません。
情報提供を判断する際に重要な基準は2つあります。ひとつは当然、その情報によって感染の抑制、ないしは、ピークの遅延につながるかどうか、です。もうひとつは、個人や組織が不当な差別や偏見、風評被害に結びつかないかどうか、です。一方、しばしば「住民の不安解消」「国民が知りたがっている」ために情報開示が必要と言われることがあります。私は心理学者ですが、不安軽減は二次的な問題だと思います。しかし、この二次的問題が大きな影響力をもつことがあるので、それについては後述します。
さて、先の2つの基準に照らすと、感染抑止に役立つ情報は個人の特定につながらないなら積極的に公表すべきです。逆に、個人のプライバシーを暴くことになるのに感染抑止には役に立たない情報は非公表とすべきです。難しいのは、多くの情報が「感染防止に役立ちうるが、個人の特定にもつながりうる」ことです。このような場合、対応はケースバイケースで行うしかないでしょう。たとえば、「この情報は、個人の特定につながる可能性は低いかたちで提供できる。一方、この情報を出すことで多くの人が感染を回避しうる」というような場合は公表の方向に判断を傾けるべきですし、逆に「この情報は、感染抑止につながる可能性は低いものであり、一方、この情報を出すと特定の人がひどい人権侵害にさらされる可能性が高い」という場合は非公表の方向に判断すべきでしょう。そして、それぞれの可能性は手許の材料から推定するしかなく、従って、判断がばらつくのは仕方ないと思います。
ばらつきをなくして一貫した判断をするには、「感染抑制に少しでも結びつく可能性があるなら(そして、拡大解釈すればたいていの感染情報は可能性はある)、無制限に個人情報を開示する」、逆に「個人の特定につながりうるなら(そして、拡大解釈すればたいてい個人につながりうる)、何人感染することになろうとも情報は秘匿する」とすれば簡単ですが、それで良いとは思いません。 また、健康(場合によっては命)と人権とのトレードオフですから、意思決定者は重い判断を迫られることになります。それに応じた責任と権限が必要でしょう。

さて、先に述べた「知りたい」「不安」に対処するために情報公開することについて、言い換えると、「知りたい」「不安」に適切に対処しなかったために生まれる問題点を以下、述べます。

基本的には自治体や政府は新型コロナウィルスの関する情報を公表するという姿勢が重要であり、非公表の場合は非公表の理由をはっきりと公表するべきです。なぜなら、「知りたい」「不安」に答えず、人々が「自治体は必要な情報を出さない」「政府は嘘をつく」と不信感をもってしまった場合、次の2つの問題が生まれるからです。
  1. 不安が高まり、情報ニーズが高いのに公式情報が提供されないと、非公式の情報(つまり、噂やデマ)がその情報ニーズを満たしてしまう。この噂やデマによって特定の誰かが不当な差別を受けたり風評被害にあったりすることになる。つまり、必要な情報が公表されないと、非公表によって守ろうとしていた人権を逆に侵害しかねなくなる。
  2. 感染防止のために有効な対策を政府や地方自治体が示しても政府や自治体が信頼されなないと、せっかくの有効な対策が人々に受け入れられない。そうすると、できるはずの感染抑制がうまく行かなくなる。

また、感染者個人や感染者の出た事業者が調査に協力せず、公表を拒む例が報告されています。すると、「自分勝手だ」との声が上がりますが、でも、なぜ、調査や公表を拒むのかを考える必要があるでしょう。それは感染者や当該企業が特定されると“悪者”にされ、非難されることを恐れるからだと思います。企業や個人からの開示の協力があった方が感染抑止につながりますが、それには皆が「感染者はむしろ被害者である」「感染者になりたくてなったわけではない」と理解する必要があるでしょう。自らの感染を公表し、行動履歴も公表した人や事業者が「よく公表してくれた!」とプラスに評価されるのなら、開示への協力は進むでしょう。つまり、情報開示を妨げて完成経路の特定を難しくしている間接的な原因は市民自身であると思います。




デマ・噂と買い占め、パニック

背景:新型コロナウィルス問題の深刻さが日々報道され、政府から学校休校の要請、イベント自粛、在宅勤務などが拡がっていました。いよいよ日常生活への影響が出てきたわけです。すなわち、新型コロナウィルスによる肺炎そのものだけでなく、それに加えて新型コロナ問題への社会的な“対応に対して対応をする”必要が生まれてきました。こういった状況が問題の背景にあります。

1. 噂やデマ
人々の脅威認識や先々に対する不安が高まっていました。直面する問題の重要性は高いのですが、これまでにない事態なので先々何が起こるのか、何が必要なのか不確実で曖昧です。それらを知りたくとも、公式の情報が与えられるわけではありません。こういった、不安、重要性、不確実性・曖昧さ、等が高いとき噂が発生しやすいとされます。つまり、情報ニーズが高まったとき、公式な情報がそれを満たさないと、非公式な情報(噂やデマ)が流れやすくなるというわけです。

2. 同調
新型コロナウィルスそのものに対しては手洗いやマスク、外出を控えることなど対策が明瞭なのに対し、今後の日常生活に何が起こり、何をしなければならないかには明確な指針はありません。こういった状態では、人は「他の人たちはどうしているんだろうか」が気になり、同調行動が生じやすくなります。つまり、噂が発生しやすい状況と同調行動が発生しやすい状況は共通性が高いといえます。こういった状況において「紙不足になる」「食品の流通が停滞する」という噂が流れました。それらの噂には、よくよく調べると違っているのですが(例えば、トイレットペーパーは中国からの輸入品がほとんどなので品薄になる、は事実ではない)、一見、もっともらしいロジックが備えられています。その結果、商品の買い増しが始まり、それが同調行動を通じて拡大します。

3. 社会的ジレンマ
素朴に考えて、「品薄になるかもしれないから、余分に買っておこう」と自分が思うなら、他の人もそう考えるだろうと想像します。ならば、他の人が殺到してなくなる前に、少し早め、余分めに食料を買っておこうという気になります。この思いは非合理的なものではく、個人レベルで考えるとむしろ合理的です。 流通管理上、小売店は通常多くの在庫を抱えていないので、そういった消費者が一定数いて、購買行動が集積すると店頭レベルではすぐに品薄や売り切れになります。すると、その状態を報道で知らされ、さらに、自分で店頭で目にした消費者が品薄情報にいっそうリアリティを感じ、購買意図を高めます。このスパイラルのなかで売り切れ状態が加速度的に拡大することになります。
こうなると、「皆が買いだめなどしなければ通常の日常生活を送れるんだ」とジレンマ構造が分かっている人であっても、食料や生活用品は必要なので、どうにかして入手せねばなりません。こうして、人々は、新型コロナ対策というよりも、日常生活を維持するために商品を求めて走り回らねばならなくなりました。

ところで、トイレットペーパーを求める長蛇の列や空になった商品棚の映像を流して「消費者がパニックになっている」と報じ、冷静になるよう呼び掛ける報道番組もありました。しかし、先述のように社会的ジレンマ状況では消費者は合理的だからこそ商品を求めて並ばざるを得なくなるのです。もともと冷静な人に冷静になれと呼びかけても何の解決にもならないでしょう。また、略奪によって商品棚が空になったならまだしも、我慢強く列に並んでいる人達の購買の集積として品切れが生じていることをとって「パニック」と解釈するのは的外れであると感じます。




リスク対策の基本方針についての私見

新型コロナウィルスに対しては「世の中の不幸の増加をできるだけ抑える」という考えが対策総体の根っ子にあるべきです。ここでいう「不幸」とは、死、重い病気、困窮、偏見や差別、家族の不和、日常を維持するための過剰な心身の負担、など様々あります。最も重いのは死ですが、他の不幸を放置してよいわけではありません。

不幸にはいろいろな種類があるのですが、リスク対策ではそのトレードオフ(あちらを立てれば、こちらが立たない)を考えねばならないのが難しいところです。
「情報提供のあり方」でも述べましたが、“感染防止につながる可能性があるから”といってその可能性が低いにもかかわらず、感染者個人のプライバシーをむやみに暴き、不当な偏見や差別にさらされるリスクを高めてよいわけではありません。つまり、死という不幸がもたらされうる可能性を大義名分にして、偏見や差別といった別の不幸を増加させることが、常に正当化されるわけではありません。逆に、ある情報を公開することによって個人のプライバシー侵害につながりうるが、その可能性は低く、一方、その情報は感染防止に貢献する可能性が高い、という場合、その情報は公開すべきです。偏見という不幸を抑えるために死という不幸の増加を正当化できないからです。
専門家は特定の不幸についてそれをコントロールするための知識を持っていても、異種の不幸とのトレードオフを考慮した判断はできません。「感染予防だけを考えればこの方法が最善」と勧告できても、それによる他の不幸の増加について熟知しているわけではありません。ちなみに、こういったトレードオフを踏まえて包括的な解決にアプローチするのがリスク分析(Risk Analysis)と呼ばれる研究分野であり、今回の新型コロナウィルス問題についてもWebinerなどを通じて盛んに情報発信がなされています。しかし、現時点ではかなり各論的な議論にとどまっているようです。したがって、最後は諸価値の重みづけとそれらのトレードオフを踏まえた政治判断に委ねることになりますし、最終的な責任はその政治を選択している国民が負っています。

特定の不幸だけを取り出しても、トレードオフを判断することはたいへん難しいです。たとえば、死をとりあげると、新型コロナウィルス肺炎による死亡を抑えるためには、在宅を強制して人と人との接触を最大限なくし、全ての医療資源を新型コロナウィルス対策に充てることが最善の策です。しかし、そうすると他の病気によって亡くなる人を増やすことになります。また、経済的な停滞によって事業が行き詰まり自殺する人も増えるでしょう。家庭に閉じ込められることによって、親の虐待で殴り殺される子供も出てくるかもしれません。学校や保育園さえ開いていれば、逃げ場所があり他人の目にさらされることで暴力のエスカレートを抑えられたかもしれないのに。新型コロナウィルス肺炎による死という不幸を抑制できても、それ以上に、別の病気や困窮、家庭問題による死という不幸を増加させる政策は正しくありません。

政府批判のひとつに「経済停滞を避けようとして、新型コロナ対策が甘く、遅い。今は新型コロナの感染防止に集中すべき」というものがありますが、私はそういうことを言っている人はバカかと思います。新型コロナの収束しか考えない政府があったとしたら、そちらの方がよっぽど怖い。経済問題も当然考慮すべきです。ただし、同じ「今は感染抑制に集中すべき」という意見でも、「集中的対策によって新型コロナ患者を抑制できれば、その分、他の病気の患者を救うことができるし、短期的に経済的停滞はひどくなるが、そこから早めに脱却することができる。様々な社会的機能も早めに取り戻せる」という論理と合理的な根拠があるなら強く支持します。あるいは、経済の停滞や他の原因による死亡や不幸をもたらす対策でも、新型コロナウィルス肺炎による死亡者や重篤患者数の減少がそれらを上回る価値をもつなら支持します。つまり、求める方針が同じでも、不幸の総量抑制を考えているか、新型コロナしか考えないかで天地の差があると思っています。先日、あるテレビ番組を視てみるとバカの見本市みたいになっていて愕然としました。
なお、私は現政権を支持して上記を述べているわけではありませんので、念のため。

今回の新型コロナウィルスのような新たなリスクに直面したとき、個人的な、あるいは社会的な判断をサポートするため、ふだんから「リスクのモノサシ」を整備しておき、メディアも特定ハザードの報道などに利用するようにしてはどうか、という提言をかつて行いました(リスクのモノサシ, NHK出版, 2006年)。具体的には、いくつかの代表的ハザード(たとえば、ガン、自殺、交通事故、自然災害、など)による国民10万人あたりの年間死亡者数の組み合わせを標準化してモノサシとしよう、新たに直面するリスクがどれくらいの大きさで、対応次第でどれくらいのレベルに下げられるのか、そのためどれくらいのコストを充てるのが適切か、等を考えるときにこのモノサシをあてよう、というものです。新型コロナウィルス肺炎による現在の死亡者数や、対策を打たなかった場合の推定死亡者数、厳しい対策を実施した場合の推定死亡者数などが頻繁に報じられていますが、それがどの程度深刻なことなのか、その数字だけを眺めてもピンとこないのではないでしょうか。
しかし、例えば重さ82gといわれてピンと来なくても、卵より重くコンビニのおにぎりより軽い、といわれればイメージがつかめるでしょう。同様にあるリスクを相対化してその大きさを理解するための道具がリスクのモノサシです。
また、今回の新型コロナウィルスを季節性インフルエンザと比較することが適切かどうか、と議論されることもありましたが、新たなリスクが発生してから急に何か別のリスクと比較した場合、比較対象を作為的に選別し、その新たなリスクを過小視させたり、過大視させたりできてしまいます。ですので、そういう余地を極力小さくするために、ふだんから標準化されたリスクのモノサシを使い込んでいくことが必要だと思います。
「リスクのモノサシ」の考えを全てここに記すことはできません。上掲書は既に絶版ですが、中古品として入手可能ですので、ご関心ある方はぜひお読みいただければと思います。



正しく恐れる、について

新型コロナウィルスの問題が報道されるようになった比較的初期のころは “正しく恐れよう”という表現をよく目にしました。しかし、感染者や死者が増えるようになってからはほとんど見なくなりました。どうやら、この表現は「小さなリスクなのに過剰に騒ぐな」というニュアンスで使われることが多いようです。本当は逆の場合にも使える表現なはずなのですが。
何を怖いと感じるか、とか、何をいとおしく思うか、などは本人の勝手であって、そこに正解や不正解を持ち込むことに違和感があります。そもそも、感情は「正しく○○と感じろ」と言われて簡単にコントロールできるものではありません。
進化心理学は次のように考えます。感情システムは長い進化の歴史の中で、特に、小規模集団を組んでの狩猟採集生活の中で育まれてきました。次々に直面する危機に対して、粗くはあるものの素早い反応を引き出し、サバイバルに役立つようにデザインされているのが感情システムです。たとえば、野生状態で野獣に出会ったときに闘うのか逃げるのかを直感的に素早く方向付けるのが感情です。
こういったシステムはリスク評価と親和性が高くありません。リスク評価はあるエンドポイント(たとえば、新型コロナウィルスへの感染)を設定し、これまでのデータとモデルに基づいて、将来の発生確率を計算するという(感情とは逆の)論理的・分析的な作業です。そこから導かれた指標に応じて恐れや喜びを感じろと言われても難しいでしょう。たとえば、感染力の強さを表す基本再生産数が1.6という文章を読んでも、それだけで一般の人々に強い感情が湧き上がるとは思えません。一方、たった一人であっても、自分にとって大切な身近な人が新型コロナウィルスに感染したり、あるいは、有名人が亡くなったりすると、強いリアリティを感じ、感情を揺さぶられるでしょう。
私はだからといって、リスク評価を一般の人々に伝えるのが無駄だとか、感情のコントロールは難しいのでどうしようもないとか、そういうことを言いたいわけではありません。むしろ、先の「リスク対策の基本方針についての私見」で述べたようにリスクのモノサシのような工夫でリスク評価を理解しやすくすべきと考えていますし、人々に適切なリスク対応行動を促すには感情面を考慮したアプローチが不可欠と考えています。ただ、専門家によるリスク評価の指標を提示し、それに応じて正しく怖がれと説諭してもあまり意味はないと思います。



心配総量有限仮説(Finite Pool of Worry Hypothesis)

私たちの心の資源(注意力や記憶力、情報処理能力などなど)は有限であり、何かを心配することについても一定の総量があります。このため、ある対象について強く心配するようになると、他の重要な懸念事項を意識しなくなってしまう、というのが心配総量有限仮説です(代表的な文献として、Weber, 2006)。リーマンショックが起こると、それまで人々が関心を寄せていた地球温暖化問題が飛んでしまったことなどが、その例としてあげられます。日本でもこの説にうまく当てはまる調査結果があります。2011年の東日本大震災によって地震や原発事故に対する人々の不安は以前より高くなりました。当然のことです。では、他の様々なリスクについてはどうなったのでしょうか。未曾有の大災害を経験し、人々は他のいろいろな問題についても悲観的になったのでしょうか。答えは逆で、農薬や狂牛病、地球温暖化、それから新型の伝染病などなど、それまで多くの人が懸念していた多くの項目で、不安はむしろ下がりました(Nakayachi, Yokoyama & Oki, 2014)。心配総量有限仮説を支持する結果です。さて、その後、数年経って徐々に地震や原発事故に対する不安は低下していきました。では、震災直後の地震や原発事故への不安上昇に対応していったん低下した他の様々な不安は、その分、元のレベルに向けて高くなっていったのでしょうか。これはそうではありませんでした。全般的に不安レベルは低い状態が続いています。つまり、私たちは東日本大震災を経験して、むしろ様々な問題に対する不安を下げたのです(Nakayachi & Nagaya, 2016)。大災害を経験しながら、数年経つと結果として全般的な不安レベルが低下するというのは何ともおかしなことに思えますが、これが事実でした。
さて、新型コロナウィルス感染者と死亡者の拡大に直面する現在、その対策に最も高いプライオリティがおかれるのは当然でしょう。しかし、私たちの社会が直面する他の様々な困難な問題が解消されたわけではありません。もし、新型コロナ問題に集中するあまり、他の問題が忘れられ、そのことによってかつてより多くの不幸が生み出されることになったら、それは新型コロナ問題が生み出す波及的な被害ということになります。この被害を抑えることも間接的ですが、重要な新型コロナ対策だと思います。
それにしても温暖化問題は、地球規模の重大な問題として関心が持たれるようになるとその直後に大問題が起こって脇に置かれることを繰り返すようです。2006年のゴア元アメリカ副大統領「不都合な真実」の頃を頂点に大きな盛り上がりを見せましたが、2008年にリーマンショックが起こりました。2018年に環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが国連の気候変動会議でスピーチをして以降も世界的な関心事となりましたが、2019暮れからの新型コロナウィルス問題で影が薄くなりました。たまたまなのでしょうか。


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