東日本大震災への思い
 この度の地震により亡くなられた方々の無念を思うと胸が詰まります。ご遺族の方々に謹んでお悔やみ申し上げます。
 まだ無力感から抜けきれずにいますが、リスク認知の研究者として何ができるのか、次の地震への備えにどんな貢献ができるのかを考えつつ仕事を進めるつもりです。
 震災後、メディアの方からコメントを求められることが何度もありました。あちらこちらで似たようなことをお話ししてきましたが、それらをまとめ、いくつかのトピックに関して私がどのように考えているかをお示ししたいと思います。
 ご留意いただきたいのは、以下のコメントは必ずしも理論や調査データに基づいたものではないということです。私の個人的な雑感であるとお考えください。私は、元来、理論やデータの裏付けなくコメントすることに臆病なのですが、今回はそれらが不十分であることを理由に黙っているのは適切ではないと思います。コメントの多くにはリスク認知研究の裏付けがあるのですが、詳細な引用文献などは示していません。お許し下さい。
2011年3月17日



・一般に公開されているコンテンツ(2012年4月下旬)
・一般に公開されているコンテンツ(10月下旬)
・「緊急時におけるリスクコミュニケーション:
 日欧のメディア・科学者・政府間の意見交換会」に参加して (10月上旬)

・情報の錯綜について(9月下旬)
・自分の研究姿勢について:悔やむこととこれからと(7月下旬)
・“正しく怖がる”ことについて(7月上旬)
・不安を背景にした市民の活動が活発になっていることについて(6月下旬)
・「消費者は極めて冷静に特定商品を避けている」 6/1発行 宣伝会議より
・「安全というなら、なぜ対処をするのか」というコメントについて(5月中旬)
・スクリーニング証明書と転入拒否(4月下旬)
・風評被害の防止について(4月中旬)
・気象庁の放射性物質の拡散予測非公開について(4月上旬)
・原発事故関連の政府の情報発信姿勢について(4月はじめ)
・情報のスピードと正確さ(3月末)
・パニックや風評被害と政府の情報発信について(3月下旬)
・「直ちに影響が出るものではない」というフレーズ −専門家が表現したい
 ことと国民の受けとめにギャップが出ることの説明− (3月下旬)
・「誰のための」災害情報か、「何のための」災害情報か(3月下旬)
・被災者や事故処理に従事する方々の被爆に関する報道(3月下旬)
・各種行事の自粛について(3月下旬)
・新燃岳情報ニーズ調査から感じたこと(3月下旬)
・手話通訳について(3月中旬)




その後、一般に公開されているコンテンツ(4月下旬)

 長く更新してきませんでしたが、メディアの取材に協力してこなかったというのではなく、むしろ、頻度が高くなりすぎてここにまとめるのが難しかったことや、ほんとに多忙であったためです。
 現時点においてオンラインで読めるもののURLを示します。いつまで閲読できるのかはわかりません。

2012年3月5日
CBC(カナダ公共放送局)“Earthquake anxiety tops stress list in Japan”
本文は英語ですが、“Living on the edge”という見出し部分で2008年の全国無作為サンプルでの不安調査結果が紹介されています。当時でさえ、多様な51項目のハザードの中でもっとも不安の高い対象が地震でした。まったく同じ調査を2012年1月下旬に行いました。地震や原発事故に対する不安がより一層高まっていると予想されますが、他の種々のハザードに対する不安がどうなったのか、日本人の不安の構造が全体としてどう変化したか、そういった問題を明らかにするための分析にとりかかっており、今年の内外の学会で発表予定です。
“Fear of complacency”という見出し部分では、巨大津波報道に接した結果、低い、けれども十二分に危険な津波に対する警戒心が薄れてしまったという、昨年、あちらこちらで発表した調査結果も紹介されています。
http://www.cbc.ca/news/world/story/2012/03/05/f-vp-dale-earthquake-anxiety.html

2012年3月27日
神戸新聞「放射線リスクとどう向き合う-『安全か危険』に陥らないで」
言いたかった内容はタイトル通りです。
http://www.kobe-np.co.jp/news/kurashi/0004919314.shtml


少し古いですが、上述の津波に対する危険認識についての記事もまだ読めるようです。
2011年10月5日
産経新聞「震災後、津波への警戒感低下 『1メートルで避難』61%→38% 東大など調査」
記事の最後に昔からの知り合いである京大防災研究所・矢守克也さんからのコメントも寄せられています。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/111005/dst11100514150012-n1.htm




一般に公開されているコンテンツ(10月下旬)

この夏から秋にかけて学会やメディアで話したもののうち、一般に公開されているものを下に示します。
 
社会心理学会第52回大会シンポジウム「東日本大震災を乗り越えるために:社会心理学からの提言」
当日Usteamにより実施したオンライン中継のアーカイブ動画です。
私が話したのは3番目、通し時間で0:42:01〜1:02:54の約20分、タイトルは「次の大地震/大津波による被害抑制に向けて」で、下のラジオ番組の津波リスク認知の調査も含まれています。 この動画では、私の報告よりもトップバッター飛田操先生(福島大学)のお話しに説得力があり心にしみ入ります。
http://www.ustream.tv/recorded/17944535

MBSラジオ「1・17ネットワーク」
その名のとおり、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災をきっかけとして誕生したラジオ番組で、「被災者に向けた、被災者のための、被災者の支えとなる番組」をコンセプトとして今日まで継続しています。
私が話しをさせていただいたのは8月22日(月)第787回放送分です。タイトルは「大津波がもたらす新たな油断」でした。
http://www.mbs1179.com/117_p/1313938800.shtml




「緊急時におけるリスクコミュニケーション:
 日欧のメディア・科学者・政府間の意見交換会」に参加して (10月上旬)

 駐日EU代表部、政策研究大学院大学が主催し、科学雑誌のNatureが協力する表題のようなイベントがあったので聴きにいってきました。久しぶりに“お客さん”で参加した気楽な集まりでした。
 社会として、あるリスクに対処するにはまず専門家がリスク評価を行いますが(行うべきですが)、しかし、リスク評価がそのまま直ちに政策となるわけではありません。政策というくらいですから政府や自治体、議会での作業を抜きにしたリスク対策はありえませんし、政策を立案、実施するプロセスにおいてメディアの影響力、果たす役割も大きなものになります。マスメディアはリスク情報や対応政策について人々に伝えるだけでなく、人々の反応を政策立案サイドにフィードバックする機能の一端も担います。その意味で、リスクコミュニケーションについて議論するとき、学者だけとか行政だけ、メディアだけ、というふうに閉じた中で話しをするよりも、今回のように一堂に会して現状やあるべき姿を論じる方がずっと有意義だと思います。
 しかし、今回のイベントの感想はリスクコミュニケーションについての議論という観点からは、少々がっかりというのが正直なところです。というのは、議論の内容が「リスクコミュニケーション」と掲げなくても良いような、つまり、「科学コミュニケーション」でも、「災害コミュニケーション」でも良いような一般的なものに思えたからです。
 議論の中では、透明性やオープンであること、市民参加といった、リスクコミュニケーションを語るときの定番キーワードが強調され、また、ファクト(事実)やエビデンス(証拠)を伝えることの重要さも繰り返されました。それらが重要であることについてまったく異論はないのですが、話しを聞いていて違和感を感じるようになったのは、仮にエビデンスやファクトが集まってきたとして、そこに伴う不確実性にどう対処してマネジメントに結びつけるのかというリスクコミュニケーションならではの課題に関する議論がほとんど出てこなかったからです。「ファクトを隠蔽せずに出していれば、こんなことにはならなかった」「情報が必要なところにしっかり伝えられる体制が求められる」。それはそうかもしれませんが、リスク問題は透明性が高ければ白か黒かはっきりするという性質のものではないし、エビデンスやファクトがあつまりさえすれば政策が自ずと決まってくるというものでもありません。たとえば、ある地域で3.11以降の放射線量が完璧にモニターされていて、そのデータが隠蔽されずに伝えられたとして、そこからどれくらいのリスクと評価されるかはモデルやその背景となる考え方によって異なってきます。従って、社会全体としては将来の被害の見通しに幅がでてきます。さらに、ありうべき政策となるともっと幅が広くなります。もちろん、情報の不足や不確実性が低減するに越したことはありません。しかし、解消しきれない不確実性を抱えながらも手持ちの情報とモデルに基づいて将来の見通しを立て、対応策を講じるために「リスク」という概念を使うのだと私は理解しています。万全な形で情報が手に入り、完璧な予測力を持つモデルを使えるならリスク分析の枠組みは必要ない。今回は、不確実性をどう共有してマネジメントに結びつけるか、幅を持った見通しの中でどのように政策決定を進めるべきか、そういったやっかいな問題について、研究者、メディア、政治家の間で意見交換がなされるのだろうと期待していました。ですが、正確な情報を出せ、相互の信頼が大事だという議論に終始していたように感じます。以上はあくまで、リスク(危険という意味ではなく不確実性という意味で)の扱いについての議論を期待していた者の感想であって、別の観点からは十分に有意義なイベントであったと思います。
 最後の最後、駐日EU大使の閉会の挨拶は印象的なものでした。うまく伝えるのは難しいのですが、彼は透明性やオープンであることの重要性に言及していましたが、それは白黒つけるためではなく、白黒つけられない状況の中でやっていかなければならないからこそ、透明性やオープンであることが重要という趣旨でした。そういえば、リスクについての意見交換会なのに、probability(確率)という言葉を聞いたのはこの方の挨拶だけだったように思います。オーストリア外務省に長く在職されていますが、「パネリストとして話しをしてくれたら良かったのに」と思いました。




情報の錯綜について(9月下旬)

 9月は学会やシンポ、研究会、講演会など数えると9回トークをしました。テーマも参加者もいろいろで、トークとは別にいくつか原稿を抱えていることもあって、タフなひと月でした。取材のために来訪されたメディアの方々と話す機会も多くありました。
 通常、トークでは質疑応答の時間が設けられ、参加者の疑問や望みを生に知ることができます。今回よく尋ねられたのが「放射線の危険性について情報が錯綜し、社会的な混乱を招いている。この状況をなんとかできないものか」というものです。科学的なリスク評価によって正解を導き、それによって危険なのか安全なのかを判断してそれぞれの問題に対処すれば良いはず。なのに、なぜそうならないのか、といういらだちが背景にあるように感じます。メディアの方からも同じような質問を受けました。
 私は「ご期待に応えられず申し訳ないが、なんともならないのではないか」と返事をしてきました。理由は、(1)リスク評価そのものに不確実性があり、正しい唯一の解というものが導けない、(2)仮に科学的な評価が収斂してきたとしても、それを使ってどう対処するかは科学が一義的に決められる問題ではない、と思うからです。
 ここでは(1)について述べたいと思います。そもそもはっきり白黒つかない灰色部分を「推定」するのがリスク評価です。今回のような低線量の放射線に長く曝露され続ける場合の被害が「実態として」どうなのかはなかなか検出できません。できたとしても十年も二十年も経ってからです。つまり錯綜している情報のもとになっている考えのどれが正しく、どれが正しくないのかは簡単にはわからないし、仮に分かるにしてもものすごく時間がかかるということです。独裁者が現れて、何人たりとも特定のモデル以外は言及を禁ずるというような事態にでもなれば話は別ですが、自由な社会において灰色部分でいろいろな考えが表明され、情報が錯綜するのは致し方ないと思います。また、社会に飛び交う情報が、科学的に確認された妥当性の高さに応じて流通するわけではないのは自明のことです。
 科学的なアプローチを積み重ねることで錯綜している情報ひとつひとつの「もっともらしさ」が変化して淘汰が進み、時間の経過とともに将来の見通しについての幅が狭まるかもしれません。そうして、大多数の人々の間で相場観を共有できるようになるかもしれません。それでさえも、幅は残りますし、高まるのはせいぜい「もっともらしさ」であって、絶対の真実が得られるわけではありません。私はそれでも科学的なリスク評価を進めることには高い価値があると思っています。ただ、リスク評価をベースにしながら問題に取り組むというのは曖昧さに対する耐性や粘り強さ、そして、ある意味でのあきらめが必要なのではないか。この9月にさまざまな場所で受けた質問からでそう感じるようになりました。
 (2)についても、では、環境リスク問題に対処するため国民は科学をどう使うのが良く、科学者の政策提言はどうあるべきか、ということについて、いろいろ考えさせられることがありました。こちらについても、いずれ書ければと思います。




自分の研究姿勢について:悔やむこととこれからと(7月下旬)

 私は2008年1月に、国民がさまざまなハザードに対してどれくらい不安を抱いているのかを探る全国調査を行いました(中谷内・島田「日本人のハザードへの不安とその低減」日本リスク研究学会誌20巻2号, 2010年)。51種類の多種多様なハザードを評価対象として5点満点でどれくらい不安を感じるか、無作為抽出された成人男女千人以上の方々から回答を得ました。その結果、もっとも不安の高いハザードは「地震」でした。調査の直前に大きな地震があったというわけではないのにもかかわらずです。
 当時は、東日本大震災はまったく想定されていませんでした。しかし、東海、東南海、南海地震の発生確率の高さ、連動した場合の被害の甚大さはしばしば深刻な問題として取りあげられていました。つまり、国民全体のリスク認知も、専門家のリスク評価からも、地震への対処は高いプライオリティを持っていたのです。
 では、私がさまざまな機会に調査結果のその部分を強調してきたかというと、そうではありませんでした。むしろ、環境ホルモンやダイオキシン、狂牛病などに対する不安が中位から低位にしかすぎないという結果、つまり、「あんなに大騒ぎした問題でも時間が経つとこの程度になってしまう。新奇なハザードに対する人々の不安は移ろいやすい。不安への対応としてあわてて莫大なコストを投じるのは得策ではない」という側面を強調してきました。
 今、振り返って反省するのは、小さなリスクを小さなリスクとして強調することには熱心だった一方で、もともと高リスクであることがはっきりしていて、国民も高い不安を抱いていることがわかった地震に関して、積極的に対処しようという主張をしてこなかったことです。
 私には政策への影響力も発言力もありませんので、何を主張していようが今回の地震の被害を低減させることはできなかったでしょう。けれども、リスク認知研究では「専門家のリスク評価と市民のリスク認知がなぜ一致しないのか」という問題が最主要テーマになるほど両者は一致しないにもかかわらず、地震に関してはうまく一致していることが調査結果から明らかでした。生産的な議論を行い、有効な対策を検討する心理学的な素地が整っていることを把握していたのに、私はこの点を研究発表の場でも教育の場でもあまり積極的にとりあげてきませんでした。そのことを悔いています。
 社会全体のリスクを合理的に削減するには、大きなリスクには大きなリソース(お金、人、手間、時間、等々)を割き、小さなリスクには小さなリソースしか割かないことが重要です。なぜなら、社会のリソースは有限であり、しかも、大きなリスクに対しては少しのリソースを投入することでたくさんの人を救うことができますが、小さなリスクに対しては、莫大な費用をかけてもそれ程多くの人を救うことができないからです。ですので、特定の小さなリスクに過剰なリソースを割かないよう訴えることは重要です。私はどちらかというと、こちらの方に注力していました。しかし、われわれの社会が抱えるさまざまなリスクを総合的に削減するには、小さなリスクに過剰なリソースを割かないように注意することとは別個に、大きなリスクに目を向け、相応のリソースを充てるように促す働きかけが必要です。何を大きなリスクと見なすかは科学的評価の不確実性や価値観の問題が入ってくるので社会的な合意が難しいところではありますが。
 いずれにせよ、今後は些末なリスクにかかずらうのは減らしていき、高い確率で大きな被害が予測されるリスクに向き合い、その被害削減のためにリスク認知研究者としてやれることをやっていきたいと思っています。




“正しく怖がる”ことについて(7月上旬)

 最近“正しく怖がろう”というフレーズによく出くわしますが、どうにもこの表現は引っかかります。その理由は、正直に言うと、「何を恐いと感じるか、何を楽しいと感じるか、そういった人の感情に正解や不正解を押しつけるな。人様の感情にまで介入しようとするな」という“感情”的なものです。でも、それだけではつまらないので、少し“論理”的に考察してみます。
 そもそも、感情システムは長い進化の歴史の中で、特に、小規模集団を組んでの狩猟採集生活の中で育まれてきたと考えられます。次々に直面する危機に対して、粗くはあるものの素早い反応を引き出し、サバイバルに役立つようにデザインされているのが感情システムです。たとえば、野生状態で野獣に出会ったときに闘うのか逃げるのかを直感的に素早く方向付けるのが感情です。一方、たとえば慢性毒性についてのリスク評価は、あるエンドポイント(たとえば発がん)を設定し、長期間特定のハザード(たとえば、放射線やある化学物質)に曝露されることによるエンドポイントの発生確率をモデルとデータに基づいて計算するという作業です。このように、感情が行為をもたらすしくみと、定量的なリスク評価に基づいて意思決定するしくみとは、いずれもサバイバルに資するものとはいえ、かなり異質なものと考えられます。そして、リスク評価の結果に応じて主観的な怖れや喜びを経験せよ、といわれても成り立ちやしくみが違うのでそれは無理だと思うのです。
 リスクの程度を“理解”しよう、という限りにおいては、私は何の違和感も感じませんし、むしろそれは積極的に勧めるべき重要なことだと思っています。でも、リスクの程度に応じて正しく怖がれ、といわれると「大きなお世話」と返したくなります。また、この表現が小さなリスクを怖がるな、という方向で使われがちであることにも引っかかりを感じます。
 ただし(ここからが本論です)、「正しく怖がる」を個人や社会がリスクに対処する準備行為や構えを指した広い概念として使うのであれば、それは“あり”だと思います。崩れそうな崖の下で何も知らずに安穏としている人がいれば、「のんびりしている場合ではないぞ」と声をかけるべきだと思いますし、安穏とした感情状態があなたのサバイバルにとって不利に働く、と指摘することも適切でしょう。逆に、空が落ちてくると心配している人が、それに備えて洞窟に移住しようとするなら、洞窟の崩落の可能性や健康への悪影響等を説明して、その対処行動のほうがよっぽど恐いのでは、と指摘するのも良いでしょう。
 でも、「洞窟を恐がれ」と上から目線で諭す必要はない。また、ただ単に空が落ちてくると怖がっているだけで、他人のコストや手間を浪費したり、別のリスクを高めるような行動をとらないなら、本人の勝手、おせっかいはしないというのが私の立場です。
 大木・纐纈両氏の近著「超巨大地震に迫る−日本列島で何が起きているのか (NHK出版新書)」では、“正しく恐れる”として東日本大震災の教訓を踏まえた防災教育や防災体制のあり方について述べられています。つまり、「地震や津波に震え上がれ」とか「安心せよ」とかいうのではなく、社会の構えとして、地震と想定される被害を理解し、被害を抑えるための準備行為を充実させることを“正しく恐れる”と表現しています。私たちの社会が東日本大震災の記憶を背景とし、正しく恐れることで次の大地震の被害を軽減できるよう願ってやみませんし、私もそれに貢献できるような研究を進めたいと考えています。
 “正しく怖がる”という表現に対しては以上のような少し複雑な思いを持っています。




不安を背景にした市民の活動が活発になっていることについて(6月下旬)

 福島第一原発の事故から3ヶ月が経過し、放射線の影響を心配する親御さんが勉強会を開いたり、個人的に線量を測定しようとしたりと、一般の人たちの活動が活発化しているという話しを耳にします。そういった行動の背景には不安の高まりがあるようです。
 では、なぜある程度の時間が経過して不安が高まるのでしょうか。理由は主に2つあると思います。
 ひとつ目は当然ですが、放射線には健康に被害をもたらすリスクがあり、今後、3.11以前より高い線量にさらされる見通しだからでしょう。しかも、単に以前より線量が高いというのではなく、それがどれくらい危険なのか、あるいは神経質にならなくて良いレベルなのか、判断することが容易ではない。「年間20mSvの被爆限度は、本当は危険だけれども仕方ないからそこに設定されたのではないか」、「なぜ、ふだんは1mSvなのに、緊急時には20mSvでよいのか?同じ身体なのに、緊急時だからと言って急に丈夫になるわけではないだろう」、「専門家同士で言い分が違うのはいったいどういうことか」、といぶかしく思うことがたくさんあります。「これこれ、これだけのリスクがある」といわれると人は不安になるでしょうが、はっきりしている分まだ腹を括ることができると思います。しかし、リスクの程度さえはっきりしないという不確実な状態はそれよりも一層、混乱をもたらし、不安を高めてしまうと思えます。
 そもそも原子力や放射線は、今回のように大事故を招くポテンシャルがあり、事故が起こり始めると制御が困難で、ガンのような致死的な結果をもたらし、しかも、住民はそれに非自発的にさらされる。こういった要素の集まりは、リスク心理学では「恐ろしさ因子」とよばれ、人々のリスク認知を構成する主要な要素のひとつ目です。今回の事態にぴったりあてはまるでしょう。もうひとつの心理的因子は「未知性因子」と呼ばれます。これは、リスクにさらされている人が直接感じることができない、対象が目に見えたり聞こえたりするものではない、悪影響が後から出てくる、といったイメージで構成される認知の因子です。これも低線量放射線のリスクにぴったりとあてはまります。こういったことから、それでなくとも放射線は不安を呼び起こす性質を備えているのです。「直ちに影響が出るわけではない」という表現が物議を醸しましたが、心理的には未知性因子の評価に合ってしまって「今は大丈夫でも、将来の悲劇の予兆である」と見なされやすくなるのです。
 不安を高めるもうひとつの理由は、リスクを管理する責任者、具体的には東京電力や政府に対する信頼の低下にあると思います。信頼が得られない当初の理由は、大事故を起こしてしまった、それをなかなか収束させられないといった技術的に能力が欠如していると評価されたためだったように思います。しかし、最近は、メルトダウンが後になってから認められるとか、放射性物質の拡散シミュレーションが国内向けに情報開示されていなかったとか、震災復興を政権維持の道具に使っているのではないか、ということが問題になってきています。つまり、誠実さとか、価値観の共有といった、信頼を構成する要素の中でもより重要な部分で評価が下がってきていて、それが信頼の低下をもたらしているように思えます。信頼できない人がリスクを管理していると思えるとき、そのリスクに対して不安が増大するのは当然のことと言えるでしょう。




「安全というなら、なぜ対処をするのか」というコメントについて(5月中旬)

 最近、原発事故後の処理を取りあげたテレビ番組の出演者や、記者会見での記者からの質問に気になるものがあります。
 どういうものかというと、福島県の土壌やがれきの処置、農水産物の出荷制限などに関して、「何らかの対処をするというのは危険だからではないか。健康への影響がないと言いつつ、なぜ特別の対処をするのか」という質問です。
 この質問は一見正論のようですが、世の中を「安全か危険か」の二分法でとらえる、リスク論的には不適切な世界観がベースにあるようです。この二分法は実際にはありえないゼロリスクを想定し、それが安全神話に結びつくという意味でかえって社会を危険な方向に向けてしまうと思います。
 被ばく線量の規制に関するALARA (As Low As Reasonably Achievable:設定された線量限度以下であっても経済的・社会的に合理的に達成できる限り、低く抑えるべき) の考え方を知っている方が番組や会見場にもいるように思うのですが、その意味が正面切って主張されることはないようです。ALARAが「完全な安全なんてないんだ」と、一見、被害を容認するように見えてしまうからなのでしょうか。私は「リスクの程度に応じて、各種制約条件の中で、できるだけ安全性を高めよう」という定量的な考え方は、放射線の領域以外でも、東日本大震災以後の日本を設計していく上で重要だと思っています。冒頭の質問に対しても「リスクは許容されるべき範囲内にはあるがゼロではない。より低いに越したことはないから、できる範囲内で一層のリスク削減を試みている」という返事がすんなり受け入れられればよいと思います。しかし、そのような社会はハイリスク社会なのかもしれません。




スクリーニング証明書と転入拒否(4月下旬)

 被災者の転入に際して、放射線量を調べた結果、異常がないことを示す「証明書」の提示が求められたり、それがないことを理由に介護施設への入所が断られたり、というケースが報道され始めました。
 私は以前から自然災害や技術的な事故は恐ろしいけれども、人間や社会はもっと恐ろしい、と思っています。自然環境に適応するのは重要な課題ですが、社会的動物である人間にとって、社会の中でうまくやっていくというのはいっそう重大な課題だからです。入所を断られた方々は、地震でひどい目に遭い、原発事故でひどい目に遭い、さらに、社会にもひどい目に遭わされていると言えます。
 なぜ、こういうことになるのでしょう。放射線影響についての知識が不十分であることが理由の1つではあると思います。福島県からであろうが宮城県からであろうが、被災者が他者に影響するレベルの放射性物質を付着させて移動することはあり得ません。放射能に関する国民のリテラシーを上げることは大切だと思います。
 しかし、リテラシー向上だけで解決する問題ではないでしょう。また、証明書の提示を求めた担当者や入所を拒否した担当者を非難してすむ問題だとも思えません。彼らの行為は住民や入所者の意向を暗黙に反映してはいないのでしょうか、あるいは、彼らは勝手に住民や入居者の意向を推定してしまってはいなかったのでしょうか。有り体にいうと、担当者は被災者受け入れに関する人々の意見の代弁者だったのではないのか、そこがたいへん気になります。
 ひどい目にあった人は同情されたり、いたわられたりという場合が多いですが、一方で、ネガティブな目で見られる場合があります。それは、世の中は公平であって欲しい、というそれ自体は健全な思いがベースにあるようです。「良い人は良い目に遭うし、悪い人は悪い目に遭う」という世界観を維持する方向で物事を判断しようとする。このため、「ひどい目に遭っている人はひどい目に遭うだけの理由があるんだ」と排除を正当化する根拠を探し出そうとするわけです。何の罪もない人が非業の死を遂げた場合、その人についての悪い噂が流れるのがその証左です。噂は多くの人が荷担しないと流れませんから、多くの人が同じような傾向を持っていると言えるでしょう。
 目先の有効な解決法は、ごく簡便に証明書を得られる体制を作ることですが、こうすると長期的には証明書を持たない人に対する差別的対応を助長するでしょう。この問題を根本から解決することは難しい。ある環境の中で反発し合っていたグループが、力を合わせて共通の課題に取り組み問題解決する、そのことでわだかまりが解けるということもありますが、今回の場合は、同じ環境に入ろうとする時点で拒否されるわけですから、このやり方は使えません。不明を恥じるばかりですが、対症療法的に、排除を正当化する根拠をつぶしていくことしか今は思いつきません。




風評被害の防止について(4月中旬)

 出荷制限をかけられていない北関東産、南東北産の農作物が風評被害のために売れなくなっています。政府は当初、県単位で出荷制限や摂取制限の規制をかけました。それに対して「粗すぎる、もっと細かな測定と規制を行うべき」といくつかの都県の知事を始め、生産者側から批判が寄せられました。しかし、地域のグリッドを細かくして精緻な出荷制限を行ったら風評被害は抑えられるとは考えにくい。消費者は店頭でそれ程高い認知的負荷をかけて生産地域を弁別するわけではないからです。近年はトレーサビリティが高められたため日本国中のさまざまな生産地が明示されています。そのような中にあっては、今回風評被害にあっている地域の商品が店頭に陳列されても、多くの消費者は「○○県産」を認識した時点で、選択肢から除外してしまう可能性が高いでしょう。政府はあえて粗い境界を設定し、消費者にとっての安全サイドに規制を敷くことで、ともかく市場に出回っている商品はこれまでと同じなんだ、特段の危険性はないんだ、と消費者に感じてもらい、市場の混乱を防ごうとしたのだと思います。
 しかし、政府がそのような意図で規制を実施し、「国民には冷静に行動するようお願いしたい」と訴えても、あまり効果はないと思います。なぜなら、そもそも国民は冷静に、ある意味、混乱などなく円滑に特定の県産品を避けているからです。そして、それが生産者側にとっての被害となっているからです。連日のように、農作物や農地での放射性物質検出についての報道がなされている中、スーパーに入った瞬間にそれらのことをきれいさっぱり忘れて、3月11日以前と同じ選択行動を行ってください、といってもそれは無理に決まっています。冷静になれば震災や原発事故を忘れる、ということにはならないでしょう。
 私は、どうせ忘れることなどできないのだから、 “冷静”になることを求めるのではなく、むしろ、東北の人たちを少しでも助けたいという“熱い”思いに訴えかける方が良策なのではないかと思います。実際、福島県のアンテナショップは盛況だといいますし、都内での茨城県からの直産販売が多くの客で賑わっているという報道もありました。社員食堂で北関東・東北産の野菜を積極的に利用しているという記事も目にしました。そういった消費者や会社は多数派ではないのかもしれませんが、一定程度存在するのなら、今回の震災で風評被害にあっている地域の農産物、水産品であることを積極的に示した方が、ただひっそりと“冷静に”いることを勧めるよりも有効なのではないかと思います。そして、そのような北関東・東北産の野菜や魚を買うことで復興を応援したいという思いを持つ人々を後押しするのは、安全性についてのしっかりしたデータでしょう。“熱い”思いを持った消費者や企業が、“冷静に”安全性を確信したいと思ったとき、それを可能にするような、アクセスしやすく、わかりやすいデータを政府や生産者側は用意すればよいと思います。
 熱い感情と冷静に物事を判断する力の両方を兼ね備え、しかし、日常的な判断においては認知的負荷をそれ程かけずに、次々と意思決定している、そのような消費者を想定すべきだと思います。




気象庁の放射性物質の拡散予測非公開について(4月上旬)

 気象庁は放射性物質の拡散予測を毎日していたのにもかかわらず、それを公開していませんでした。この度(4月4日)、政府はその方針を改めて公開することとしました。
 今回、政府が方針を変更したことによって、現状の克服に大きく貢献するとはあまり期待できません。しかし、この問題は実は大きな意味があると思います。なぜなら、政府はこれまで“起こったこと”についての情報は出してきており、国民からすると、次から次へと不安をかき立てる状況が知らされてはいるものの、しかし基本的には、知らされていること以上に悪い事態にはなっていないと感じていたはずです。これは、パニックや不合理な行動を抑制する上で重要なことです。ところが、情報を隠そうとしている、隠蔽しようとしている、という形で国民が政府に不信感を持ち始めると、過剰な買いだめや無駄な避難行動を助長することになり、そのことが新たなリスクを産むでしょう。その意味で、拡散情報の非公開問題がこじれるとかなりまずい事態になったのではないかと思います。原発事故の問題で政府への信頼は損なわれているでしょうが、それは事態を収束できない能力面についての評価が落ちているからであり、この点はまだ対処のしようがあります。しかし、誠実さについての評価が落ちたり、国民と同じ側に立っていないと見なされて信頼が損なわれると、政府に対する回復は不可能になるでしょう。現時点では、どんなにまずい情報であろうと、短期的な混乱を怖れて伏せるのではなく、まずい情報はまずい情報として国民に開示することが、長期的には良策であると思います。




原発事故関連の政府の情報発信姿勢について(4月はじめ)

 原発事故をめぐる政府の情報発信の基本姿勢は「エビデンス(事実やデータ)に基づいて状況を理解し、それを国民に伝える」というもののようです。実際、政府は起こってしまったことがらに対しては、かなり明確な情報発信を行っているように思います。ところが、国民が知りたいのは、「これから事態はどうなるのか」「自分はこれからどうすればよいのか」という今後についての見通しについてです。これについての情報は十分に提供されているとは感じられません。別の言い方をすると、政府は済んでしまったことはよく説明するが、最も関心の高い、将来の見通しについては必要とされる情報を提供していません。このような政府の基本姿勢を象徴的に示したのが福島第1原発1号機の建屋爆発後の記者会見でしょう。建屋が吹っ飛んで骨組みだけになってしまった映像や、敷地境界で1,000マイクロシーベルトを超える線量が測定されたとの情報が繰り返し報道されてから1時間足らず後に枝野官房長官の会見が行われました。そこでは、枝野長官は爆発があったことを認めつつも、「線量も損壊の状況も情報を集めた上での判断をする」の一点張りでした。深刻な損傷のあった可能性、すなわち、高線量の放射性物質が放出されてしまう可能性についての記者からの質問を取り合わず、客観的な情報を収集するというコメントに終始しました。このような、皆が知りたい先の見通しについて言及しない姿勢は批判されるかもしれませんが、しかし、私はそう簡単に非難できるものではないと思っています。なぜなら、可能性というだけなら、原子炉はびくともせず健全性が保たれ機能回復に近づいていくという楽観的なものから、圧力容器が破裂してしまい、高線量の放射線がどんどん漏出するという悲観的なものまで、多様なシナリオがありえたからです。はっきりした根拠も無しにそのようなシナリオを次々に提示することが、あの時点での政府の情報発信の姿勢として適切だったとは考えられません。確度の高い情報に基づいて現状を理解し、そのことを国民に伝えるという政府の姿勢は一定程度の評価を与えられるべきだと思います。実際、1号機の水素爆発は、その時点では建屋を吹っ飛ばしていただけであり、あたかも「原子炉が破壊されてしまった事実をなぜ認めないのか」といわんばかりの会見場の記者やテレビスタジオの解説者達は勇み足寸前でした。
 このように私は「事実に基づいた確度の高い情報を伝える」「憶測に基づいた情報発信をして国民を混乱させない」という基本姿勢を評価するものですが、しかし、そこは別の深刻な問題をはらみます。国民が最も知りたい将来の見通しについて、不確実な情報は提供しないという方針の下で、公的な情報が提供されないとどうなるでしょうか?国民は確度の高い情報によってこれまで起こったことだけを理解してそれで済むのではなく、安全な食糧を確保したり、高いリスクを回避したり、と現在進行形で、この経験したことのない不確実な状況の中、生活を営んでいるのです。「根拠のない情報に振り回されるな」といわれても、今後の安全を確保するための公的な情報が得られないと、不安に基づく強い情報ニーズがあるのだから、結局は、満たされない情報のプールを噂やデマなどの別の非公的情報が埋めることになります。これでは混乱を抑えるためにと政府が不確実性情報を控える意味はなくなってしまいます。ひとくちに不確実性のある情報といっても、その不確実性にはかなり高いものから低いものまで幅があります。人は、ふだんから、その幅と可能性の高さを踏まえて将来の行動を調整し、つまり、“程度”を勘案しながら日常生活を送っています。
 水道水から基準を上回る線量が測定され、安全か危険かという二分法ではやっていけず、否応なしに定量的にリスクとつきあわざるを得なくなった現状では、国民は、不確実さについてもその程度を勘案しながら対処できるのではないでしょうか。政府も、「こんなことは、可能性はゼロとは言えないが、まずあり得ない」という情報はそのようなものとして積極的に提供し、国民が360度、前後左右どこに進むかまったくわからないという状態から抜け出られるようサポートしたほうがよい。不確実ではあるがその可能性がきわめて低いシナリオについては、国民が公的な情報に基づいて考慮からとりあえず外し、将来の見通しの幅を狭められる、そういった方向に舵を切るべきではないでしょうか。
 原発事故に関しては未だに緊急対応状況から抜け出られずにいますが、国全体の復興についてはこの先のビジョンを提示すべき時期にさしかかってきています。ビジョンどおりにいかないことも多く、そのたびに政府は批判されることでしょう。しかし、それはそのたびに適切に訂正すればよいのであって、不確定要素がある部分については批判を怖れて将来ビジョンを明示しない、というようなことになったら、そのデメリットはもっと大きいと思います。ビジョンがないと、対処すべきことがらの優先順位を共有することができず、結局、場当たり的な対応をせざるを得なくなって効率を落とすからです。そのことを危惧します。




情報のスピードと正確さ(3月末)

 東電は福島第1原発2号機で測定された汚染水のきわめて高い線量は間違いだったと訂正し、その内容についてさらに再訂正を行いました。これに対して枝野官房長官はたいへん強い調子で批判をしています。得られた客観的なデータから現状を把握して対処する、という堅実でありながらも後手を踏むリスクを負った政府方針のもとでは、その対策の適切さを担保するデータが間違いでした、というのは致命的な判断ミスを生む可能性があり、政府側の怒りも当然のことです。
 しかし、基本的に、情報の「スピード」と「正確さ」はトレードオフの関係にあります。そして、現状では、国民に伝える優先順位としては「スピード」のほうが高いと思います。もちろん、素早く正確に、に越したことはありませんが優先順位の問題としてはこちらが高いと思います。なぜなら、「じっくり検証してから確度の高い情報のみを伝える」という姿勢は場合によっては隠蔽と受け取られ、政府や対象事業者の「誠実性」に関する信頼を落としてしまうからです。情報の誤りも信頼を落としますが、それは「有能さ」に関する信頼であり、こちらはすでに落ちてしまっていることもありますし、情報の訂正によってある程度リカバーできますが、誠実性に関する信頼を失墜させると取り戻すことは困難です。政府や事業者が信頼されなくなると、結局は、被災者や国民自身にとっても困った事態になります。
 したがって、間違ったことを発表してしまったことを厳しく責めて、正確な情報を求めるのは正しいようですが、実は逆の要素にも気をつけるべきだと思います。ここは不正確さを責めるよりも、ひるまずに得られた情報をどんどん出すことを促すことの方が重要です。
 それでいうと、東電が4回の会見を2回にすると言う申し入れに対してメディア側が強く抗議することは当然のことです。新たな情報がないなら「新たな情報がない」と発表すればいいのです。




パニックや風評被害と政府の情報発信について(3月下旬)

 パニックや風評被害を抑えるためには、噂のコントロールが重要です。既にさまざまな噂やデマがネットやツイッター上に飛び交っています。噂が発生するのは、事態が深刻で人々の不安が高まっているのにもかかわらず、その事態を説明する情報が不十分で、どういう状況にあるのか曖昧なまま放置されているときです。
 たとえば、日本でも第2次大戦中に報道管制が敷かれました。戦争が長引き、空襲の頻度は増え、国民の不安が高まっていました。にもかかわらず、状況についての明確な報道がなされないので、戦時流言が流行しました。このような教訓から学び、風評による人々の非合理的な動きを抑えるには、「わかりにくい」とか「遅い」とか非難されても、ともかく情報はすべて出すという姿勢をもつこと重要です。特に、悪い情報ほどしっかりと開示することが重要です。そして、「深刻な事態に直面していることは間違いないが、けれども、報道されている以上の悪いことは現時点では起こっていない」と国民が感じられれば、無用なパニックや風評被害を幾分かは抑えることができると思います。




「直ちに影響が出るものではない」というフレーズ −専門家が表現したい
ことと国民の受けとめにギャップが出ることの説明− (3月下旬)

 「直ちに影響が出るものではない」という表現が、後になってから悪影響が出るという誤解を招くものと危惧していましたが、最近は表現が修正されているようです。
 専門家はリスクを「生起する事態の深刻さ」と「そうなる確率」の2つの要素で評価するのですが、一方、われわれ一般人は「恐ろしさ因子」と「未知性因子」という認知的な評価のかたまりで直感的にリスク認知します。このうち、未知性因子は「なじみがない」、「目に見えない」、「リスクにさらされている人が知覚できない」、そしてここで問題になる「影響が後から現れてくる」という評価軸から構成されています。低線量の放射線影響はこれらにぴったりとあてはまってしまいます。ですから、直ちに影響が出ないですという言い方は、「大丈夫です、安心してください」というメッセージのつもりで言っているのかもしれませんが、これは下手をすると晩発的影響があると受けとめられ、未知性因子の評価を高めて、かえって不安を高める可能性があります。
 母親が小さい子供の被爆を強く恐れるのは、この心理によるものと思います。つまり、放射線を体内に入れるとずっと溜まり続け、将来、突然ガンや白血病をもたらすのではないかという怖れです。しかし、一度体内に取り込むとずっと留まり続けるという思い込みは間違いです。放射能の物理学的半減期についてはしばしば言及されているようですが、それよりも排泄によって体外に出されるという生物学的半減期について、もっと伝えられればと思います。過剰な放射線を受けない方が良いのは当たり前ですが、問題は量であり、今は国民も定量的に考える機運が(否応なしに)生まれつつあるように思います。




「誰のための」災害情報か、「何のための」災害情報か(3月下旬)

 情報発信には資源(それができる人、時間、お金・・)が必要で、それには限りがあります。そして、情報の有効性は、それを受け取る人と目的によって異なります。すべての人に対して、それぞれが必要とする情報を素早く正確に伝えることができればいいのですが、それは不可能です。それぞれのフェイズに応じて優先順位をつけなければなりません。
 災害初期には「被災者のための」「安全を確保するための」情報が何よりも優先されるべきです。そして、事態が落ち着いてきたら「被災地域以外の人のための」「安心のための」情報も必要になってきます。なぜなら、人口構成では大多数を占める被災地域以外の人々が強い不安を感じたまま放置されると、そのことが新たなリスクを産むからです。具体的には過剰な買い置きや、無駄な逃避行が、流通の混乱や交通の混乱をもたらすからです。
 政府の情報発信を批判するテレビ番組の解説者やコメンテーターの意見も、現状はどのフェイズにあって、誰に向けての情報が、何のための情報が、最も重要なのかが理解されないままであることが多かったように思います。
 実際に、災害初期には「被災者に向けて」「(避難)判断するため」の情報が多く発信されていました。それに対して、「安全な東京のスタジオにいる私たちのために」「納得するための」情報発信を求める意見が強く、そのことが被災者に対してたいへん傲慢であることすら気づいていない傲慢さに驚かされました。ひとくちに「市民が求める情報」というかたちで市民をひとくくりにしてしまうことには危険があると感じました。




被災者や事故処理に従事する方々の被爆に関する報道(3月下旬)

 水道水から放射能物質が検出されたことや、野菜の出荷制限に関する市民のコメントを聞いていると、リスクを定量的に考えようとする機運が生じているように思います。つまり、「放射線が検出されたか・されなかったか」という二分法ではなく、どれくらいの線量ならまずいのか、という考え方です。今の事態に直面して、否応なくそうなってきたのだろうと思います。そして、リスク対応のためにはこの定量的対応というのがたいへん重要です。メディアは話しを単純化して安全・危険の2つに分けたくなるでしょうが、ここは国民も含めてこらえどころだと思います。そして、安易な被爆者・非被爆者という二分化は被災者への差別にもつながると思います。
 JCO臨界事故の際、被爆線量が低く、リスクが小さいことは理解しながらも、「ヒバクシャ」とラベルを貼られることを恐れる住民もおられました。人は社会を形成して生活しているのであり、放射線も怖いが社会的に不利な立場におかれてしまうのも怖れる、というのは当然のことです。
 メディアには被災者に対する差別を助長しないよう、ぜひ気を配っていただきたいと思います。安易な二分法的な表現を避けることがそれには大切だと考えます。




各種行事の自粛について(3月下旬)

 私は中部地方以西の自粛ムードに危機感を抱いています。たとえば、今回の被災とは直接関係しない観光地でホテルの宿泊がものすごくキャンセルされています。
 平均寿命の長い国はほとんど先進国であることからわかるように、安全性の高さは経済力と結びついています。東北地方の復興にもお金がかかります。被災地以外の人たちが、大いに生産し、大いに消費し、利益が上がればそこから復興にまわすことがこれからの日本に貢献するはずです。これから4月に入っていろいろとおめでたいイベントが予定されているはずですが、非難を恐れてのキャンセルが増えるのではないかと危惧しています。さまざまな活動を自粛して経済をよけいに停滞させてしまうよりも、イベントの中で亡くなった人たちに黙祷を捧げつつ、現在も塗炭の苦しみを味わっている人たちのために募金活動をするほうがよっぽど復興に貢献すると思います。計画停電中に東京ドームでナイターをするというようなバカな話しは論外ですが、今回被災していない地域が萎縮してしまうことは何にもならないどころか、復興のためにもマイナスです。メディアの方々には、ふだんどおり活動することを萎縮させたり、自粛を助長したりするような報道姿勢にならないことを願っています。




新燃岳情報ニーズ調査から感じたこと(3月下旬)

 新燃岳で近隣住民の人たちの情報ニーズを調査したのですが、そのまとめをしないうちに今回の大震災となってしまいました。
 新燃岳では、住民の方々は「今、自分がどうすればよいのか」「今、事態はどうなっているのか」を知りたくて、その情報をテレビ報道に求めていました。空振があったときに、すぐにテレビをつけて確認したが、何の速報もないので不安になったという回答もありました。一方、テレビ報道はその日に起こった(つまり、すんでしまったことの)情報を一般国民に知らせるもので、特にキー局の全国的な報道はそのようなスタイルにならざるを得ません。このギャップから、住民の方々はテレビを主要な情報獲得手段として期待しているのに、十分には役に立たないという意見が目につきました。
 ところが、メディアリテラシーの個人差は大きくて、デジタル放送の文字データから自分の居住地にあてはまる風向き情報をリアルタイムで得て、洗濯物干しの判断をしていた人もいれば、逆に、夕方の全国向けニュースを眺めるだけしかできず、前述のように「自分には役に立たない」と批判している人もいます。ネットユーザーを対象にしたモニター調査でさえそんな感じで、災害時にいかに人がテレビに依存しているのかを知って驚きました。
 ネット時代がいわれて久しいですが、災害情報入手ソースとしてのテレビの存在感はまだまだ強いようです。




手話通訳について(3月中旬)

 障害者の方々は災害時にはいっそう難儀されます。会見などで手話通訳がいる場合は、テレビ報道では、ぜひ、それを画面に入れていただきたいと思います。



↑TOP