JR EAST Technical Review, No.35, 1-4.
【 特集記事 】

前向きの信頼と後ろ向きの信頼

中 谷 内 一 也  ( 同 志 社 大 学 心 理 学 部 )


はじめに
 今日の日本では、「安全・安心」の実現が多くの領域で目標として掲げられています。このことは鉄道事業においても例外ではなく、JR東日本でも、利用者の安全確保はもちろんのこと、さらに進んで、「お客さまに安心して利用していただく」ことが目標として定められています。では、「安全・安心」状態を実現するための“正攻法”はどのようなものでしょうか。それはおそらく、客観的事実としての安全を向上させ、そのことを利用者に知ってもらうことで、主観的な心の状態としての安心に導く、というものでしょう。そこで、鉄道事業に関して、安全と安心はどのような状態にあるのかを少しみてみましょう。まず、客観的な事実としての安全については、福知山線脱線事故のような深刻な事例があるものの、本号でもJR東日本の実績として示されるように、全体的な傾向として事故件数は減少しています。日本の鉄道は世界的に見ても高い安全性が実現されてきていると言ってよいでしょう。一方、心の状態としての安心については、さまざまなハザードに対する不安(安心の逆の状態)を検討した調査結果が参考になります。図1は、2008年に実施した調査結果で、51項目の多様なハサードについて「まったく不安でない」をO点、「非常に不安である」を5点とする6段階尺度を用いて回答を求めたものです。サンプルは二段階無作為抽出によって住民基本台帳から得られた日本全国の成人男女約1,200名でした。図はそれぞれの平均値を求め、不安の高いものからソートしたものです。鉄道事故がどこにあるか探してみて下さい。上から見ていってもなかなかみつからず、ようやく下から4分の1のあたりに現れてきます。さまざまなハザードの中でも、かなり安心な側に位置しているといえるでしょう。同じ交通カテゴリーでは交通事故(自動車事故)が第5位と高い不安が回答されているのとは対照的です。飛行機事故は鉄道事故よりも3項目分安心寄りですが、日々の利用者数や運行本数を考慮すると、やはり、鉄道に対する相対的な不安はかなり低いと言っていいでしょう。こうやって、鉄道についての安全と安心の関係を見てみると、安全を実現することで安心に導くという正攻法がうまく機能しているように思えます。
 けれども、実は鉄道は例外的なのであって、安全と安心の関係はそれ程単純ではないようです。たとえば、近年の社会調査の結果から犯罪や治安に関する不安の高まりが指摘されますが、統計的現実としては凶悪犯罪が増加しているわけではありません。食に対する不安も同様で、意識調査の結果は高い不安を示していますが、食中毒で命を落とす人はひと昔前、ふた昔前に比べると激減しているのです。そもそも、国としての総合的な安全水準の高さは平均寿命に表れるはずです。日本の場合、女性が86.44歳で世界一、男性も79.59歳とトップレベルに位置しています(2010年7月厚生労働省調べ)。このことから日本は世界的にみてかなりの安全国家と言っていいでしょう。そして、ここで重要なのは、日本が世界有数の長寿国であることは、日本人自身がよく知っているということです。にもかかわらず、食や治安、医療、福祉に関して不安が高いのです。このような現状は客観的、あるいは統計的に測定されるような意昧での安全を高め、そのことを人々に知ってもらっても、必ずしも人々の不安をぬぐい去ることはできないことを意味しています。
 私は、JR東日本には、ぜひ、安全を高めることを通して安心を追求する愚直な姿勢を維持して欲しいと思っています。しかし、人の心理としては、安心を得るには安全実績だけでは足りないものがあるようで、単に安全を高めるだけではなく、それに加えて、人々に安心してもらうための別の働きかけも必要だと思われます。

(本文より抜粋)