同志社心理, 2009, No.56, 18-21. 心理学部開設記念号 安全と安心の心理学中 谷 内 一 也
「安らかな食を楽しむために,安全の取り組みと心理学」ということですが,ここで安全と は何か,安心とは何かを考えてみましょう。安全は実態として,品質問題として危険が低い状 態です。それに対して安心というのは危険が低いと感じる心の状態,主観的なものです。さて 人々が安心して食を楽しむには何が必要か。この問題に対する正攻法は「食品の安全を高める。 実態としての食の環境を,よりレベルの高いものにする。そのことを人々に知ってもらう。そ の結果,安全な食生活を営んでいるんだなと安心してもらう」というのが正攻法ですね。「安 全を高めることによって安心を高める」。ところが,この方法では,どうやら不十分であると いえそうです。なぜなら,これは我が国での食中毒死亡者数の推移です。 1960年,国民10万人 あたり食中毒で亡くなる人が0.27人いました。20年後には0.17人。さらに10年後には0.004人。 5人が4人になり,3人になってではなく,10分の1となる。このように実態としての食の安 全は大変向上している。今日の日本が世界的に見ても大変豊かな食生活を享受していることを 皆さんもご存じだと思います。つまり豊かで安全な食生活を営んでいることは一方ではわかっ ているんですが,けれども食への不安が高まっている。食品安全委員会がつくられたのが6年 前です。昔,危険だったから食品安全委員会があって,安全になったから解散したというので はないんです。安全になっているのにそういう委員会ができたということを考えますと,安全 になったからといって人々の不安感がなくなるのか,安心してもらえるのかというと,どうや らそうではないということが言えそうです。 多くの人は食こそが生命の基盤だと考える。安全な食生活を営むと長生きできる,危ない, むちゃくちゃな食生活だと寿命が縮まると考える。寿命はどうなのか。今年7月,厚生労働省 がまとめたデータです。日本は女性は86.05歳で世界一です。男性も79.29歳。男性でも日本を 上まわるのはアイスランドなど2,3ヵ国しかない。過去最高記録を更新しています。十分で はないかという気がします。 20年たったら,90歳くらいまで伸ばしたいと思うかもしれません けど。こんなことはきかなくても皆さんご存じだと思います。女性の平均寿命が世界一だとい うことは前から知っていた。驚くニュースでもないわけです。ということは食こそが命の基盤 だ,そして,命が長い。にもかかわらず食への不安が高い。ということを考えますと,安全を 高めることで人々に安心してもらうという正攻法,本来的なやり方では必ずしもうまくいかな い。これは安全はいらないということではないんです。必要条件として安全性を高めることは 大事,でも,安全性が高まったから安心に直結するかというと,別の話です。必要条件として 安全を整えた上で,安心の心の部分に直接働きかける必要がある。心に働きかけるのですから, 心理学です。 じゃ,やったるぞ,と腕まくりして出ていきたいところなんですが,残念なことに最近の心 理学の教えるところは,ちょっと悲観的です。というのは人の心は安心しにくいようにできて いるんです。従来の心理学では,人の心はタブラ・ラサ,これはラテン語で,人間はまっさら な心を持って生まれてくるので環境次第,生後の教育や環境次第で,どうにでも変化させるこ とができるんだと考えていました。ワトソンという心理学者は,かつて,私に10人の子どもを 預けなさい。そのうちあるものは泥棒にしてやろう。あるものは私の望む専門家にしてやろう と言いました。育て方次第,環境の整備の仕方次第で立派な人間にもできるし,どうしようも ない人間にもできるんだと。環境次第というのが,かつての主流の考え方でした。それに対し て,今日の考え方は,人の心は進化のプロセスの中で育まれてきた一種のソフトウェアだと考え ます。遺伝的な,生まれながらにして先天的な枠組み,法則性に結構拘束される。生まれなが らの法則性というのが,ちょっと厄介です。なぜかというと安心しにくい法則性だからです。 (本文より抜粋)
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